人生論
ビジネスで最重要なのは人の力
当たり前のことだけど、ビジネス本で何度読んでも身につかない、実行しなければ真に理解できないことの典型例でしょうね。人の力こそ、ビジネスの成否をわける要素となるのだと思います。
いわゆる頭のいい人は、最初にできるかできないかを判断してから、ものごとに取りかかる。だけど、自分の頭だけで判断できることなんて、世の中に1000分の1もないんだ。つまり、99.9%は、やってみなければ分からない。これが現実だ。
だから、「できる」と信じてぶつかっていくやつが、難しい問題を解決していくんだ。一般的な人から見たら、無謀な、変わっているやつというわけだ。誰かに人を紹介するっていうのも、未来の約束手形のようなものだ。だから「紹介したら自分が損する」なんてケチな了見を持ってはいけないよ。(中略)人は人から学び、人から影響を受けるものだ。だから、知恵のある人、慈悲のある人と一緒にいると、やっぱ、こりゃ勉強になるよぉ。
成功については生存者バイアスを踏まえないといけませんが、実行しなければそもそもスタートラインにも立てないわけで、それだけでもこの言葉には価値があります。また、やってみなければわからないというスタンス自体、不確実性を前提としたコメントであり、世の中をありのままに捉えようとしているのだなと感嘆してしまいます。
人を紹介するハブになることが価値を持つというのもいいですね。成功者は共通して、ギブのタイミングを選ばず、寛容さと利他精神を持ってギブを行っているんですよね。私も、常日頃から心がけていきたいと考えています。
0正しければ暴言が許されるわけではない
ほとんどの場合、多数派が正しいという論拠は受け入れられませんが、結論部には賛成です。
だから、「精神衛生」を理由として、自分の嫌いな人や自分の嫌いな言い方をする人を避けるのは、全く正しい。「正しくも不快なことを我慢して聞く」なんてのは、一番精神衛生に良くない。状況によっては鬱の元だ。そう考えればむしろ、どれだけ正しいことを言っていようと、言い方が不快な人の言葉は聞くなと言ってもいい。こと、ネットに関しては、これを通したところで損なぞしない。「正しいこと」なら、早晩届いて来る。不快な奴の言うことまで我慢して聞くことはない。
まわりを見ていると、正しければ暴言が許されるという考え方をする人もいるようです。相対主義の観点からして「正しければ」という前提から暴言をなすというのはその時点でいかがなものかと思うのですが、仮に正しさが何らかの形で立証可能でも、なお暴言が許されることとは関係ないと思います。
相手を説得したい場合、暴言を吐くよりは、論拠を積み重ねて説得するとか、優しく包み込むように情に訴える方が効果的でしょう。暴言は、気弱な相手を抑圧する手法ですので、好ましくありません。また、相手を説得せずに自己の意見を主張するだけの場合でも、暴言を言うメリットは見当たりません。
要するに、暴言は自分が気持ちよくなるだけであり、相手の存在を踏まえるとメリットは薄いと思います。また、正しさというものが相対的な価値観に基づくものである以上、「正しい」という仮定自体がおかしいケースがほとんどでしょう。そう考えると、こうしたところまで気がまわらない相手はテンパっていたり、価値観が絶対主義だったりする蓋然性が高く、(相対主義・自由主義の私としては)スルーしても構わないと思います。
より細かく言えば、原理主義的に分け隔てなく接したいというポリシーを持つ方なら別ですが、特段こだわりがなければ、スルーでいいと思います。ただ、ここで注意したいのは、自分にとって耳の痛いことを排除するのではなく、暴言という手法で主張してくる人を排除するということです。自分にとって耳の痛いことを、暴言ではなく、きちんとした形で伝えてきてくれる人は大事にすべきでしょう。それはとても勇気のいることですからね。そういう友人をたくさん作りたいものですね。
0利他的なのに嫌われるという驚愕の実験結果
以前、偽善の拡大解釈という記事で取り上げたようなことが実験で証明されたとのことです。
社会心理学の研究によると、グループ全体のために進んで自らを提供しようとする人は、同僚たちから嫌われるらしい。
「利己的でないメンバーをグループから放逐したいという願望」と題された論文(『Journal of Personality and Social Psychology』に掲載されたもので、4本のシリーズ論文のうち1つ)によると、「利己的でない人」はメンバー全体に求められる「基準」を引き上げてしまい、他の同僚たちを「悪く見える」ようにするため、同僚たちの恨みを買うことになるという。
「誰かの利己的でない振る舞いのおかげで、グループ全体にメリットが生まれるとか、目の前のタスクが上手く行ったりすることは考慮されない。客観的に見て良いことが、主観的には悪いことと思われている」と、研究の共著者の1人、ワシントン州立大学のCraig Parks教授は語る。
実際の人生においては、利他的な人々というのは少数派で、ほとんどが利己と利他のバランスをうまくとっています。そういう意味では、心配するような実験結果でもないのですが、個人主義的な発想に一石を投じるものでもあると言えるでしょう。
極端な個人主義の立場からすれば、まわりに害を与えない限り、利他的に振舞おうが利己的に振舞おうが勝手で、その結果を自己の責任のもと引き受けるのみです。しかし、共同体文化などを踏まえると、他者にある種の害を与えているということとなり、自分が納得しているし、相手にも利益を与えているからOKという立場が許容されないということになります。
私としては、相手が利己だろうが利他だろうが直接的な害がなければいいのですが、空気というものまで配慮する必要がある場もあるようですね。これは、大きな政府や介入主義の発想にもつながっているように思います。
う~ん、やはりコミュニタリアン・リバタリアンまわりについて論じた本を読んでみたくなってしまいますね。
| これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 |
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マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍
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寛容の精神が身をたすく
昔、ドラマの設定でよく用いられた病院での取り違えですが、こんなふうに前向きに解決した家族もいると知って軽い感動すら覚えました。
人生では、うまく行かないことも多く生じてきますが、マイナスを、マイナスとしてくよくよするだけで終わらせるのではなく、マイナスをプラスに転化する発想の転換、積極思考といったことが、やはり必要という気がします。
落合さんも言うように、マイナスをプラスにしていく発想というのは、こういう時代であるからこそ、求められているように思います。当然、それを外部に求めるのではなく、自分からそういった解決法を意識していくことが必要ですね。
それに加え、ここに見られるのは寛容の精神だと思います。病院など、他者のミスがあったときに、それを根にもったりうらんだりしても、相手も自分も得をしません。この事例のように、取り返しのつかない過去は過去として、今ある現実を最大限よいものにしていこうという発想を持つことが重要であり、そのためには寛容の精神を持つことが必要なんですね。
寛容の精神は、まわりにとっても、相手にとっても、自分にとっても役にたつものだと思います。そこにつけこむような人もいますが、それは誤差の範囲内だとして割り切り、寛容の恩恵を享受していくような人生を送りたいものですね。
0何が自我を支えるか
この書評が要点をかいつまんでいるのもそうだろうけど、『自我の源泉』というテーマ自体に、かなり深い興味を感じます。
このような内面を根拠として自我という不動点を置き、そこから科学や道徳を考える発想は、デカルト以降の啓蒙思想に受け継がれ、今日まで続いている。これに対して、ヘーゲル以降のドイツ観念論は自我という概念は幻想だと批判し、ニーチェからポストモダンに至る人々は、自我に依拠する絶対的価値を否定する。啓蒙的な個人主義が論理的にはニヒリズムに行き着かざるをえないというニーチェの洞察は正しいが、ほとんどの人はそのような砂漠状態には耐えられない。(中略)
いま日本で人々が直面しているストレスは、このように近代社会が20世紀後半以降の「後期近代」で徐々に経験してきた、社会の断片化によるアイデンティティの喪失という不安が、経済の行き詰まりによって急性の症状としてあらわれただけだ。そこには本質的に新しい問題はなく、簡単な解決法もない。
池田さんの書評なので、ちょっと小難しく感じる人もいるかもしれませんが、まさに現代の問題を捉えている問題意識だと思います。
自分を絶対視せず、客観視するというのは、場面を選んでテクニカルに使う場合はきわめて有効な技術です。たとえば、低い自己評価を与えがちな人が、他者のフェアな意見を聞くことで、自己評価に関するズレを補正する、というのはいい例でしょう。
ですが、自我を客観的なものだと絶対視することは、私はできるだけそう試みていることもあってわかるのですが、直感的な感覚とかなりのズレを生み出します。そして、自分がそれを押し通したとしても、周りがそう動いていないので、そういった部分でも損をしている印象を受けることもあります。それでも、私は客観視のようなフェアネスを貫く自分に喜びを感じる部分が大きいので、それを強く意識しています。
ただ、当然誰にでもできることではなく、一定の手助けの仕組みのようなものが必要不可欠と言えるでしょう。主だった流れで言えば、宗教だったり、コミュニティ回帰の流れだったりといったことが挙げられますが、どれも一長一短というところです。この点、自分なりの何らかの解決策を提案していければと思った次第です。
とは言え、『自我の源泉』は高いので、図書館に入るのを待つことにします(笑)
| 自我の源泉 -近代的アイデンティティの形成- |
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チャールズ・テイラー 下川 潔
名古屋大学出版会 2010-08-31 |
「わからないから教えて」が包含するもの
Twitter経由で、思わず「あるなぁ~」とうなってしまうブログ記事を見ました。
結局、彼の質問は「○○がわからないから教えてほしい」と言いながら、「○○をありがたがるなんて、気が知れない」と言いたいだけなのでしょう。「教えてくれ」と言いながら、すでに「んなもん気が知れんわ」という答えは心の中に確固として存在しているのです。ですから、聞かれた方がいくら言葉を尽くして説明しても「なるほど!」という答えが返るはずがありません。それは、「議論しよう」と持ちかけながら、その実は論争を楽しもうとする姿なのです。
要は、「○○がわからないから教えてほしい」というのは、議論を通じて自分の価値観の正しさを証明したいだけであり、「教えて欲しい」といいつつ、最初から相手を理解する気持ちなどないということのようです。
ここにアンフェアを感じるのは、相手側としては、自分がわからないことは、説明する側の説明スキルの欠如、もしくは、自分が正しいからという思考経路をたどっており、価値観の多様性といったことに目が行っていないためです。
逆に言えば、価値観の多様性を認める度合いが小さければ、この思考経路は許されてしまうことになります。そういう意味では、価値観の多様性というメタ認識にまで立ち返れば、相対化できないこともない考えです。
ただ、それでも私は価値観の多様性を支持します。なぜなら、自己の正しさばかりに捉われていては、自己の可能性も損ない、結局は自分を損させることにつながるからです。先の例で言えば、美術館や絵の良さを知ることで、世界は広がります。コミュニケーションのネタも増えます。逆に、それを理解しようとしないことは、美術館や絵を好きな人をdisることができるくらいです。
当然、可能性を広げる必要もないし、コミュニケーションのネタを広げる必要もないという考えで相対化することもできますが、そこまでいくとキリがないので、今回はこのへんで。
0ポジティブシンキングが覆い隠す矛盾
勝間さん的な自分磨きの議論に見られる違和感というものの、一つの回答がここにあります。
押しつけられたポジティブシンキングのもたらすもの:バーバラ=エーレンライク著「ポジティブ病の国、アメリカ」書評
「物質面での成功を得るためのカギが楽観主義であって、楽観主義がポジティブシンキングの訓練によって習得できるならば、失敗したときには言い訳できない。ポジティブ思考の裏を返せば、容赦なく、個人の責任を強調されるということだ」「問題を精神や心に押しこめてしまうと経済や社会の問題がないがしろにされ、個人の責任のみが問われてしまう。精神主義やポジティブ・シンキングが推奨される社会というのは社会構造や社会問題が無視され、隠蔽される危険があるのである。すべて精神や心が悪いとなり、搾取や権力の問題から目隠しをされてしまうことになる。」
このエーレンライクの問題意識は、的を射ているように感じました。私は、システムの重要性というものを常に念頭に置いていますが、能力を持っている人というのは、システムが不利にできていてもそれを克服することができてしまうので、自分の力、意思の力や理性を過信してしまうのでしょう。そういう意味では、勝間さんのような人は優秀なのには違いないけれども、それをその他大勢の人に適用することはできません。
かといって、よく対比される香山さんのように主体性もなくシステムのせいにしっぱなしというのも違います。当然、システムは変えていく必要があるのですから、そのために動くことは必要ですし、そこに至るまでに、不利なシステムの中でもどう生きていくかという視点が重要です。
資格試験の的外れな感じとか、就職戦線に必要以上に自己責任が求められることへの違和感も、この視点で説明できるように思います。
システムの問題と、自己の問題は切り分けて考えた上で、自分なりのベストを尽くす姿勢が重要なのではないでしょうか。
| ヤバい経済学 [増補改訂版] |
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望月衛
おすすめ平均 |
バーナンキの幸福論
幸福という概念は、国の政策の根本を構成する非常に大事な要素であり、その捉え方によって、政策も変わってきます。そして、個々人の人生も、幸福の捉え方によって変わってきます。以下、バーナンキの考え方を見ていく中で、価値観の多様性の重要性について再確認しておきたいと思います。
相対的豊かさの仮説により、富裕国の人々は自国の貧困層よりも幸福だと思っているが、なぜ富裕国の人々は概して貧困国の人々に比べ、幸福度が低いかが説明できる。
まず、幸福は往々にして相対的なものであるという基本認識があります。これは、人間が社会的な動物であることに由来しています。そして、勝間・ひろゆきのディベートで出てきた先進国の幸福度の低さは、まさにこれにより説明されるのだと思います。
こうした人間の本性に対し、バーナンキは、絶対的幸福感の大切さを説きます。ある意味、幸福論の王道ですね。
幸福とは、自分の環境に完全に適用してしまう人間の習性に抵抗することにより、高めることが可能となる。一つの現実的な提案は、あなたが感謝する経験や出来事などをリストアップする日記をつづることだ。
周りの環境(相対的基準)に惑わされず、何か熱中できるものを見つけることが大事だということです。地球上の60億人の中の一人にすぎないという認識ではなく、俗っぽく言えば「オンリーワン」であることを確認するため、感謝の経験や出来事をリストアップするように説いています。
そうすると、自分がいかに人々から支えられているか、そして、価値観の軸をずらしてみれば、いかに自分が幸福だと思える部分があるのかということがわかってきます。つまり、自分が安心していられる評価軸を見つけることができるわけです。そして、個々人それぞれが、自分が幸福だと思える軸を大切にしていくことが、相対としての幸福度の上昇につながります。価値観の多様性を許容することは、こういう文脈でも非常に大事なことであり、自由が尊重される理由でもあります。
さて、その典型的な例を見てみましょう。
泥だらけになったリンカーンが馬車に戻ると、友人は厄介なことに身をおいて豚を助けることは、その理論を否定しているのではないかと指摘。「全然そうではない」とリンカーン。「わたしのしたことは完全にこの理論に沿ったものだ。あの豚を救わなければ、嫌な気分を味わったことになったからだ」と強調した。
このリンカーンの一説は、価値観の多様性の意義をわかりやすく説明しています。人々は、自分の価値観に従って合理的に生きるわけであり、お金はその一つの尺度にすぎません。人を批判する前に、その人の大事にしているバックボーンを考えること、自分が信ずるところを見つけて心に余裕を持つこと、価値観の多様さを受け入れ、寛容になること。そうしたことを心がけていきたいものです。
0バランス感覚に優れることは、決断するということ
H.Yamaguchiさんが最近雑誌ネタを連続投稿していたので、またAneCanとかananのときみたいなおもしろが見れるのかなとワクワクして以下の記事を見たのですが、今回の記事は真面目な意味で秀逸でした。
ではこうした問題に折り合う点はありうるのか。これほどこじれた問題に簡単な解決などなかなかないだろうが、接点がないとは思わない。日本には固有の立場があるから彼らの言い分など無視すればよいという意見もあるかもしれないが、それはここでとるべきスタンスだとは思わない。国際社会との協調とかそういう面もあるし、それにもまして、事実やその分析に基づく知見はぎりぎり共有可能と考えるからだ。民族や地域に固有の価値観の間での優劣はつけがたいが、科学的見地、国境をまたぐ広域的視点から得られる価値観のようなものは、少なくともある程度は見出せるのではないか。少なくとも表向きには。(中略)
私は、白人、というか欧米の人たちが総体的にみて情報不足のまま日本人に対して誤ったイメージを持つ傾向にあること自体を否定はしないが、それはある程度お互いさまだから、そういう批判は天に唾する類のものかと思う。また、仮に思想自体にはそれなりのシンパシーが集まっているにしても、シー・シェパードのやり方がかなり過激なものであるという認識も広く共有されていて、手法に対しては批判がけっこうあるということも忘れてはいけない。ならば、国内で感情的に反発しているだけではなく、あくまで冷静に、事実に基づいて、こちらからの情報発信を増やしていくことが必要かと思う。私自身は鯨食にさほどこだわるものではない(おいしいと思うけどね)のだが、現在の状況はあまりうれしくない。自分にできることはあまりないが、情報発信くらいはしていきたい。
かなり長く書かれているのですが、全体的にしっかりとした主張をしつつも、肩の力が抜けるようなゆったり感で包まれている文体なので苦になりません。
私が注目するのは、引用部に主に現れているのですが、山口さんのバランス感覚です。一方の立場に固執することなく、それぞれの立場に立って、フェアな観点から議論を進めようという姿勢は素晴らしいし、学ばなければなりません。
さらに、評価したいのは、難しい問題だと理解しつつも、なんとかとりあえずの回答は出しておこうという姿勢です。100点が取れないからといってすねてしまうのではなく、46点でいいから、とりあえず決断して、その後、再試で2点ずつでも積み上げていけばいいという姿勢です。こういう姿勢を継続していくからこそ、問題は解決に向かっていくのだと思います。
人は往々にして、バランス感覚を大事にする人は優柔不断になりがちだし、決断力あふれる人は分析が足りなかったり断定的だという側面を持っています。山口さんのようなスタンスは、その中庸に立った、見習いたいポジションだと思います。
0記憶は不確かなもの
内観療法については以前に触れましたが、今回はその補足です。
――内観をする人の思い出した事実に対して、面接者は評価やコメントをせずに、ただ聞くというのも、客観的事実を重視するからですか。
本山 そうです。本人が自分で気づくことが大事なのです。自分自身で気づいて納得したことだけが、その人の血肉となりますから。人から良い話を聞いても納得できなければ意味がありません。
(中略)
(内観療法に対して)「それは巧妙に仕組まれた認知療法だな」
この考え方に対する賛否はさて置き、「認知が変わる」ということは、間違いありません。
――興味深いものがあります。
本山 自分が感じた記憶の総量が「過去」だとすると、過去は変えられるわけです。
まず、前段の自分が見つけたものについて納得可能性が高いというのは、大事な部分です。アドバイスをよくしている方は、相手が何度言ってもアドバイスの内容を呑み込まない一方で、相手自身が何かのきっかけでそのアドバイスの有効性を実感すると、その内容を呑み込むという事例に遭遇したことがあるのではないでしょうか。たとえば、親が自分の教訓をもとに子どもを諭すのはちょうどこんなパターンをたどるでしょう。
このように、自分で納得すること、経験すること、発見することというのは大事なことです。このことは、自分自身が成長する上でも重要ですね。
また、後段の、記憶は不確かなものというのも真実です。記憶は、実際には取り出すたびに変わっていきます。こんなことを言うと、なんだか自分という存在が不確かな感じがしてきますが、脳の構造上しかたのないことであり、自然なことです。
よって、捉え方を変えることで、記憶自体も変質していきます。イヤな記憶に悩まされている方は、この事実だけでも勇気付けられるのではないでしょうか。
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いいと思います。
論の弱さが目立つ
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