偽善の拡大解釈

「優しさ」というのは、誰しも発揮すれば心地よいものですし、誰しも受けても心地よいものです。しかし、その優しさの動機によって、優しさの価値が低く見られてしまうケースがあるようです。一言で言えば、「偽善」と呼ばれるようなケースですね。

ただ、この「偽善」という言葉は、拡大解釈されているように思うんです。

たとえば、老人の死後の財産を狙って、表面的に近所の資産家にすり寄ったり親切にしたりするのは偽善と言って差し支えないでしょう。その内面には、利に関する計算しかなく、善は表面的なものでしかありません。

一方で、自分の心の満足を味わうために、頼られている感覚を味わうために、無償でボランティアを行う人々がいます。これも、形式的には自分の利のために行っていることになりますし、それを見て偽善と判断される場合もありますが、先述のケースとは異なり、私は偽善とは見ません。

なぜなら、後者の場合、行為をする側の人の満足は自己生成的であり、外からの資源を必要としていないためです。前者の場合、逆に、外からの?「金」という資源を必要としているため、社会的に見ても、老人の親族から見ても一定の損失が生まれ、批難に値するとみなされるのです。

それでは、なぜ後者をも偽善と呼ぶ向きがあるのでしょうか。それは、外にいる人たちが、ゼロ・メッセージを受け取ってしまうからだと考えられます。つまり、無償で善を行う人がいるのに、それをやらないのは悪いという不作為に対する批難を感じてしまうわけです。

そうすると、外にいる人たちにとって、無償でボランティアを行う人たちは煙たい存在になります。つまり、外にいる人たちにマイナスをもたらす存在となるわけです。だからこそ、偽善という批難が生まれてきます。

ただ、こうして解き明かしていくと、後者の偽善の場合、偽善と呼ぶ人たちの方に無理があるように思います。自分の不作為は、自分の判断の結果なのですからそれはそれで継続し、無償のボランティアは素直に賞賛すればいいだけの話です。

ただ、他者との比較の中に生きている、自尊心欠如の風潮の中ではそれも難しい道のりなのかもしれません。

弁理士(Patent Attorney)志望、個人投資家(Invester)。TDLと同い年。平成24年合格を目指して3月から勉強開始。F1とドラえもんをこよなく愛す。I wanna be friends and build strong ties with you:)特に知財関係の方は宜しくお願いします。

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